○大津市名誉市民の略歴および業績
本籍 滋賀県愛知郡秦荘町大字下八木44番地
現住所 東京都港区麻布広尾町3番地
堤 康次郎
明治22年3月7日生
(昭和39年4月26日死去)
1 略歴
大正2年3月 早稲田大学政経学部卒業
大正9年3月 箱根土地株式会社を設立
大正12年12月 駿豆鉄道株式会社を経営
大正13年5月 衆議院議員当選(1回)
昭和3年1月 多摩湖鉄道株式会社を経営
昭和3年1月 衆議院議員当選(2回)
昭和5年2月 衆議院議員当選(3回)
昭和7年1月 武蔵野鉄道株式会社取締役
昭和7年2月 衆議院議員当選(4回)
昭和7年6月 拓務政務次官
昭和11年2月 衆議院議員当選(5回)
昭和12年4月 衆議院議員当選(6回)
昭和17年4月 衆議院議員当選(7回)
昭和18年5月 近江鉄道株式会社社長
昭和21年11月 西武鉄道株式会社取締役
昭和27年10月 衆議院議員当選(8回)
昭和28年4月 衆議院議員当選(9回)
昭和28年5月から昭和29年12月まで 衆議院議長
昭和30年2月 衆議院議員当選(10回)
昭和33年5月 衆議院議員当選(11回)
2 業績
若くして政財界に志し、政治生活50余年、大正13年36才にして衆議院議員に当選して以来、昭和7年44歳にして早くも拓務政務次官に就任し、昭和28年には衆議院議長の要職につかれ、勤続25年院議をもって表彰せられる等、今や名実共にわが国政界の長老といわれるまでに至り、また、財界においては、その事業経営に対する卓越せる手腕により、つとに観光、産業、交通事業等を通じ、わが国未開発の国土資源開発に絶大なる功績を残すと共に、常に「奉仕と感謝」をもって生活信条とされていることは、世人の尊敬の的となっているところである。
なお、本市行政に対しては、その政財界における豊かな経験と識見により、常に指導と援助を惜しまれず、殊に本市が国際文化観光都市を標傍するや特に積極的な関心をよせられ、その基盤の確立に果された氏の功績は誠に大である。
(昭和33年10月1日表彰)
本籍 大分県中津市1769番地
現住所 東京都世田ケ谷区世田ケ谷1ノ208番地
辛島 浅彦
明治15年7月17日生
(昭和40年10月15日死去)
1 略歴
明治38年8月 東京芝浦製作所入社
明治40年2月 三井物産株式会社入社東京支店、ロンドン、ニューヨーク、名古屋各支店勤務
昭和2年5月 東洋レーヨン株式会社入社
昭和2年8月 東洋レーヨン株式会社常務取締役兼東洋レーヨン株式会社滋賀工場長
昭和8年8月 東洋レーヨン株式会社専務取締役
昭和12年12月 東洋レーヨン株式会社取締役会長
昭和17年10月 人絹、絹統制会会長
昭和19年4月から昭和24年4月まで 国策パルプ工業株式会社取締役社長
昭和24年4月 日本貿易株式会社取締役会長
昭和24年4月 山陽パルプ株式会社監査役
昭和24年4月 大日本印刷株式会社監査役
昭和26年11月 東洋レーヨン株式会社監査役
昭和28年11月 東洋レーヨン株式会社相談役
2 業績
昭和2年4月石山に誘致された東洋レーヨン滋賀工場の創設にあたり、初代工場長として赴任され、会長安川雄之助氏の全幅の信任を得て社運をかけた全くの創設期に全身全霊を打ち込まれ、斯業に対する卓見と強靱なる実行力をもって幾多の苦難をのり越え、遂に今日の隆昌の基盤を確立せられたのである。今日、同工場が優秀な化学繊維を製造し、絶えざる研究によって人類の福祉に貢献していると共に、また一方、本市の南部商工業地帯開発の先駆であり、本市発展の一大原動力となっていることを顧みるとき、同工場の生みの親として氏が残された業績は誠に大である。
(昭和33年10月1日表彰)
本籍 滋賀県近江八幡市加茂町1889番地
現住所 滋賀県大津市中央三丁目5番1号
竹内 角左衛門
明治12年5月25日生
(昭和50年8月5日死去)
1 略歴
明治39年7月 京都法政学校専門部行政学科卒業
昭和5年3月から 滋賀県民生児童委員
昭和14年1月から 保護司
昭和21年3月から 滋賀県地方労働委員会長
昭和21年10月から 大津市民生委員推せん委員会委員長
昭和26年3月から 滋賀県社会福祉協議会長
昭和26年6月から 滋賀県民生委員審査会委員
昭和27年5月から 社会福祉法人滋賀保護院理事長
昭和27年11月から 大津保護司会長
昭和27年11月から 滋賀県保護司連合会長
昭和32年4月から 近畿弁護士連合会理事
2 業績
大正4年職を弁護士に奉じてより40余年、その間職を通じ社会福祉問題が喫緊の要務たることを痛感し、民生の安定と社会福祉の振興に尽瘁せられ、特に昭和4年の滋賀保護院の創設には力を致され、昭和5年初めて方面委員となり、昭和26年から初代県社会福祉協議会長に就任、数々の業績を残され、かつ、また再度にわたり県弁護士会長につかれる等、県下法曹界においても重鎮として幾多の功績を残されると共に、終戦後未曽有の混乱期における労使間の調停にその法曹生活の多年の経験と識見により、滋賀県地方労働委員会長として献身尽力せられ、今なお引続き会長につかれていることは、氏の崇高なる人徳によるものといわなければならない。
(昭和33年10月1日表彰)
本籍 滋賀県高島郡高島町大字勝野1230番地
現住所 大津市錦織一丁目3番10号
上原 茂次
明治26年11月28日生
(昭和46年5月28日死去)
1 略歴
明治 44年 3月 京都市立第一商業学校卒業
昭和 2年 4月 滋賀県高島郡大溝町議会議員
昭和 5年 3月 滋賀県高島郡大溝町長
昭和 6年 9月 滋賀県議会議員
昭和 6年 10月 滋賀県高島郡大溝町長
昭和 10年 9月 滋賀県議会議員
昭和 13年 10月 滋賀県高島郡大溝町長
昭和 14年 9月 滋賀県議会議員
昭和 14年 10月 滋賀県高島郡大溝町長
昭和 16年 10月 滋賀県高島郡大溝町長
昭和 18年 4月 滋賀県高島郡高島町長代理者
昭和 18年 8月から
滋賀県高島郡高島町長
昭和 20年 2月まで
昭和 27年 10月から
大津市長
昭和 39年 10月まで
2 業績
昭和2年(34歳)高島郡大溝町議会議員として政界に入り、自来ひたすら住民自治の育成とその発展のため精進し、ことに昭和27年大津市長に当選以来3期12年の間、豊富な経験と高邁な識見、加うるに卓越した行政手腕をもって大津市の現在の基礎をきずかれた。
氏は、つとに地方団体の自主性を強調され、地方財政の逼迫しつつあった昭和29年に本市独自の財政再建5か年計画を樹立し、早期にその赤字を解消し、引き続き健全財政に意を注ぎ、特に教育問題については、教育3か年計画に基づき義務教育施設の充実に力を注ぎ、とりわけモデルスクール逢坂小学校を完成して、全国教育関係者の注目を集めた。
一方、旧来の伝統に生きた古い大津の街並を近代都市に脱皮させるため、都市計画事業として第1次湖面埋立事業と相まって湖岸道路の建設に着手し、さらに市民多年の念願であり、また市勢発展の大きな課題であった駐留軍施設の返還および跡地利用問題について渾身の努力をはらい、今日にみるスポーツの場、憩いの場として市民に愛され、活用されている県下唯一の規模と充実した諸施設を備えた体育、文化のセンターである皇子山総合運動公園ならびに皇子が丘公園を設置し、本市将来の経済、文化の発展に尽された。
これら数々の問題解決を通じて、今日の近畿地方の中核都市として本市発展の基盤をきずかれた功績は誠に大である。
(昭和45年10月1日表彰)
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現住所 神奈川県鎌倉市山ノ内1450番地
小倉 遊亀
明治28年3月1日生
(平成12年7月23日死去)
1 略歴
大正2年3月 滋賀県立大津高等女学校卒業
大正6年3月 奈良女子高等師範学校国漢部卒業
大正8年4月 横浜捜真女学校教諭(17年間)
昭和7年6月 日本美術院同人(女性初)
昭和30年4月 第7回芸術選奨文部大臣賞受賞
昭和32年1月 第8回毎日美術賞受賞
昭和37年5月 第18回芸術院賞受賞
昭和41年4月 琵琶湖文化館で回顧展を開催
昭和48年4月 勲三等瑞宝章受章
昭和54年2月 滋賀県文化賞受賞
昭和55年11月 文化勲章受章
2 業績
明治28年本市丸屋町(現中央一丁目)に生まれ、県立大津高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校に学んだ。同校卒業後、安田靭彦画伯に師事し、女性初の日本美術院同人となり、上村松園賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日美術賞、さらに昭和37年に芸術院賞受賞、昭和55年には文化勲章を授与された。ちなみに、女性の同勲章受賞は3人目である。今回の受賞は、すぐれた女流画家を生んだ大津の文化的土壌に見直しを迫る意義があり、とかく大津の文化の向上が叫ばれている中で、本市の存在を内外に再認識させるとともに、市民に多大の文化的啓発を与えるものである。
(昭和56年4月20日表彰)
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現住所 滋賀県大津市島の関9番3号
西田 善一
明治41年8月1日生
(昭和56年4月25日死去)
1 略歴
昭和4年3月 国立彦根高等商業学校卒業
昭和21年8月 滋賀県軟式野球連盟会長、滋賀県社会人野球連盟会長
昭和24年9月から昭和39年10月まで 株式会社西利商店社長、近江製氷株式会社社長
昭和26年4月から昭和34年4月まで 大津市議会議員
昭和31年6月から昭和39年11月まで 大津商工会議所会頭
昭和35年4月から昭和39年3月まで 滋賀県中小企業団体中央会会長
昭和38年4月から昭和39年9月まで 滋賀県議会議員
昭和39年10月から昭和47年10月まで 大津市長
昭和40年8月 財団法人滋賀好善会会長
昭和41年6月 大津市観光連盟会長
昭和47年11月から昭和50年8月まで 株式会社琵琶湖ホテル社長
昭和49年4月 大津市体育協会会長
昭和49年6月 大津商工会議所会頭、滋賀県商工会議所連合会会長
昭和50年5月 滋賀県観光連盟会長
2 業績
国立彦根高等商業学校卒業後野球界で指導者として活躍され、昭和26年に大津市議会議員として政界に入り、昭和38年には滋賀県議会議員に当選された。その後昭和39年に衆望を集め、大津市長に当選し、以来2期8年にわたり市議、県議の豊富な経験を生かし、行政の推進に献身された。
在任中は、特に都市基盤及び教育環境の整備に全力を傾注され、また、市庁舎の移転新築、瀬田・堅田両町の合併、びわ湖大博覧会の開催、健康センター建設等の大事業を成し遂げられた。
市長退任後も商工、観光、福祉、体育面等の指導的要職につき、市政発展のために尽力された功績は、誠に大である。
(昭和56年4月20日表彰)
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現住所 大津市におの浜二丁目2番5―816号
守田 厚子
明治35年8月12日生
(平成16年10月1日死去)
1 略歴
大正8年3月 熊本県第一高等女学校卒業
昭和21年9月 滋賀県遺族会婦人部長 現在に至る
昭和23年8月から昭和58年3月まで 大津市未亡人会会長
昭和24年11月 滋賀県未亡人連合会(昭和32年11月社団法人に改組、昭和47年2月社会福祉法人に改組、昭和48年7月社会福祉法人滋賀県母子福祉のぞみ会に改称)会長 現在に至る
昭和25年11月から昭和41年3月まで 全国未亡人団体協議会副会長
昭和42年4月 財団法人全国未亡人団体協議会(昭和57年8月財団法人全国母子寡婦福祉団体協議会に改称)会長 現在に至る
昭和42年4月から昭和51年10月まで 中央児童福祉審議会委員
昭和43年10月 藍綬褒章受章
昭和49年4月 勲四等瑞宝章受章
昭和53年4月 財団法人滋賀県遺族会会長 現在に至る
昭和53年5月 社会福祉法人におの浜保育園理事長 現在に至る
昭和56年10月 社会福祉法人小鳩会乳幼児院後援会会長 現在に至る
昭和58年6月 滋賀県風紀環境をよくする会会長 現在に至る
昭和61年6月 滋賀県地方社会福祉審議会委員 現在に至る
昭和62年6月 滋賀県郵便貯金預金者の会会長 現在に至る
2 業績
戦争という悲痛な体験をとおし、世界平和の尊さと戦没者慰霊の重要性を強く認識され、昭和21年9月、残された遺族の相互扶助のため滋賀県遺族会の結成に努められた。
さらに、母と子の福祉対策の必要性を痛感され、全国に先がけ昭和23年8月大津市未亡人会を結成。その後、昭和24年11月に滋賀県未亡人会の会長に就任。昭和48年に会の名称を滋賀県母子福祉のぞみ会と改め、母子の福祉向上と就労の場の確保などに献身努力される。
また、昭和42年には推されて全国未亡人団体協議会会長に就任。昭和57年8月、全国の母子の生活安定と女性の自立をめざして改称された全国母子寡婦福祉団体協議会の会長として、今日まで卓越した識見と指導力により、全ての女性の地位向上と社会参加の推進に尽くされた功績は誠に大である。
(平成5年10月1日表彰)
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現住所 大津市下阪本四丁目8番19号
山田 耕三郎
大正6年1月15日生
(平成24年9月22日死去)
1 略歴
昭和9年3月 滋賀県立膳所中学校卒業
昭和10年4月から昭和22年4月まで 株式会社島津製作所に勤務
昭和22年4月から昭和26年3月まで 下阪本村村長
昭和26年4月から昭和34年4月まで 大津市議会議員
昭和26年5月から昭和49年5月まで 下阪本農業協同組合長
昭和34年4月から昭和46年4月まで 滋賀県議会議員
昭和47年9月から昭和55年5月まで 大津市長
昭和55年6月から平成4年7月まで 参議院議員
平成4年11月 勲二等瑞宝章受章
平成5年6月 滋賀地方自治研究センター理事長 現在に至る
2 業績
昭和22年若くして政界を志し、31歳で下阪本村長に当選、昭和26年大津市議会議員、昭和34年滋賀県議会議員に当選、以来6期24年間にわたり議員として住民自治の発展に尽力される。
昭和47年9月、大津市長に当選され、2期8年の間、卓越した行政手腕を発揮され今日の大津市発展の基礎を築かれた。
市長在任中は、市民本位の市政を政治信条とし、「福祉は行政の原点」との信念のもとに、「乳幼児検診・障害児保育大津方式」を確立し、その推進に尽瘁される。
市民参加の市政推進のため、各学区での市民センター建設や当時の人口急増に対応する学校教育施設の整備に尽力される一方、大津駅前都市改造事業、瀬田駅前土地区画整理事業の推進など県都大津の都市基盤づくりに務められた。
さらに、昭和55年参議院議員に当選、長年の地方自治の経験を生かされ、高齢化社会に対応する福祉の向上と豊かな地方自治の確立に尽くされた功績は誠に大である。
(平成5年10月1日表彰)
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大津市大門通17番8号
山下 元利
大正10年2月22日生
(平成6年3月14日死去)
1 略歴
昭和18年9月 東京帝国大学法学部政治学科卒業
昭和18年9月 大蔵省入省
昭和38年5月 大蔵省主税局税制第一課長
昭和40年6月 広島国税局長
昭和42年1月 衆議院議員当選(第1回)
昭和44年12月 衆議院議員当選(第2回)
昭和47年7月 内閣官房副長官
昭和47年12月 衆議院議員当選(第3回)
内閣官房副長官(再任)
昭和51年12月 衆議院議員当選(第4回)
昭和53年12月 国務大臣・防衛庁長官
昭和54年10月 衆議院議員当選(第5回)
昭和55年6月 衆議院議員当選(第6回)
昭和58年12月 衆議院議員当選(第7回)
昭和61年7月 衆議院議員当選(第8回)
平成2年2月 衆議院議員当選(第9回)
平成5年7月 衆議院議員当選(第10回)
平成6年3月 勲一等旭日大綬章
2 業績
東京帝国大学を卒業後、昭和18年に大蔵省に入省、主計局主計官、主税局税制第一課長、広島国税局長等を歴任し、昭和41年に大蔵省を退官される。
昭和42年1月に滋賀県選挙区で衆議院議員に初当選し、以来、連続して10期27年にわたり衆議院議員として活躍された。この間、大蔵省在任中の豊富な経験と実績及び先見性と指導力をもって、昭和47年に内閣官房副長官、昭和53年に防衛庁長官に就任され、国政の重要な役割を担い日本の発展に貢献された。
特に、氏は、琵琶湖総合開発の必要性を強く訴えられ、昭和47年の琵琶湖総合開発特別措置法の制定や昭和57年、平成4年の2度にわたる同法延長に心血を注ぎ事業推進に尽力されるとともに、極めて実現が困難とも言われた「大津放水路」の国直轄事業化の決定に粉骨砕身努力された。
また、唐崎国有地の活用にあたり、卓越した手腕をもって関係省庁に奔走いただき、今日、小中学校、市営住宅及び全国市町村国際文化研修所などの整備推進が図れたのも、氏の功績によるところが大きい。
その他、大戸川ダム建設、京滋バイパス、西大津バイパス建設及びなぎさ公園の整備等の諸事業推進にも惜しまぬ指導と援助をいただき、近畿の中核都市としての大津市発達のために尽くされた功績は誠に大である。
(平成6年3月14日表彰)
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現住所 大津市中央二丁目4番36号
山田豊三郎
大正11年10月13日生
(平成21年7月18日死去)
1 略歴
昭和18年11月 満州国立新京法政大学特修科経済学部卒業
昭和20年12月 大津市役所入所
昭和26年2月から昭和47年11月まで 人事課長、国民健康保険課長、市長公室長、公営企業部長、総務部長、企画部長、建設部長、企画室長を歴任
昭和47年11月から昭和55年6月まで 大津市助役
昭和55年6月から平成15年12月まで 大津市長
2 業績
昭和20年、大津市役所に入所され、昭和26年から人事課長、国民健康保険課長、市長公室長、総務部長、企画部長等の要職を歴任された後、昭和47年には大津市助役に就任され、強固な信念と卓越した識見、さらには人一倍の責任感を持って、その職務を遂行された。
昭和55年6月、市民の信託を得て、第21代大津市長に当選され、在任中は、「市民の心を心とする市政」を信条とし、「人間性の尊重」「市民自治の確立」「環境の保全と創造」を市政の基本理念とし、23年6か月もの長期にわたり市長として市政の推進に尽力された。
この間、本市の地域特性を活かしながら、安全、清潔、快適なまちづくりを進めるため、道路、下水道、河川や、なぎさ公園をはじめとする公園等の都市基盤施設整備を推進されるとともに、清掃工場や廃棄物最終処分場等の生活基盤施設整備にも努められた。
さらには、すこやか相談所、特別養護老人ホーム、生涯学習センター、小中学校等の整備等、少子・高齢化社会に対応した地域福祉施策の推進や教育施設等の充実に努められた。
また、古都指定を受ける等、風格あるまちづくりを進め、県都として、近畿の中核都市として、市政の着実な発展に尽くされた功績は、誠に大である。
(平成16年4月21日表彰)
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現住所 大津市北大路一丁目9番26号
目片 信
昭和16年11月1日生
(令和2年12月8日死去)
1 略歴
昭和35年3月 比叡山高等学校卒業
昭和35年4月から昭和61年4月まで 株式会社目片工務店勤務
昭和61年5月から平成3年3月まで 株式会社目片工務店代表取締役
平成3年4月から平成8年9月まで 滋賀県議会議員
平成8年10月から平成12年6月まで 衆議院議員
平成16年1月から平成24年1月まで 大津市長
2 業績
長年建設業界で活躍された後、政界を志し、平成3年4月に滋賀県議会議員に当選され、2期5年にわたり務められた後、平成8年10月に衆議院議員に当選され、地域住民の多大な支持のもと、議会人として県政及び国政の発展と円滑な県議会及び国会の運営に尽力された。
平成16年1月には、多くの市民の支持を得て第22代大津市長に当選され、「改革と継続」「決断と実行」を行動理念として、政財界における豊富な経験を生かしながら、「県都にふさわしい大津をつくる」「安心で安全な大津をつくる」「子どもが健やかに育つ大津をつくる」「環境にやさしい大津をつくる」「行財政改革を進める」を基本方針に掲げられ、2期8年にわたり湖都大津のまちづくりのために昼夜問わず粉骨砕身職務にまい進された。
この間、大津まちづくり行動計画「大津維新」に基づいて新たなまちづくりに取り組み、市民協働の礎を築くとともに、都市基盤の整備に努められた。
また、卓越した指導力のもと、今日の県都大津を形作る基礎となった志賀町との合併や中核市への移行などの大事業を成し遂げられ、市政の発展と住民福祉の向上に尽くされた功績は誠に大である。
(平成25年10月1日表彰)